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差異、幸、賽。それは投げられたのか、投じたのか。それが重要。 [ちょっとまじめな話]

今日はいわゆる午前様の帰宅。
そして明日は8時前から会社でフランス語のレッスン。
宿題はまだしていない。
でもBlogを書いている。

何故だろう?
それは、とても気分がいいから。
それは直接的に、村上春樹のいうメタファーとして、そして形而上学的に、リアリスティックに。

今日は業界他社の仲間(年長者の方や社会人としての先輩であるけれど、あえてこう称したい)と飲んでいたから。
他社の方と飲むのは数週間ぶりだったが、やはり楽しいものだ。
社内の人と飲む時の多少なりともバイアスやフラストレーションを感じるといった事が全くない。
環境は違えど、同じような思いを胸に同じような境遇で同じような悩みをきっと共有しながら日々を過ごしているという、テレパシーにも似た共有感があるからだと想う。
こういうつながりは例え距離的に離れようと、ずっと大事にしていきたいものだ。

で、その帰りの電車の中で気分よくアルコールに満たされながら考えていたのは、今年は実に色々な事があったということ。
とあるProjectで粉骨砕身で働き、束の間の成功体験があり、その結果訪れた焦燥感で退職を決意し、自分の思いを超えた力で新たな機会を創造し、その間に新居を購入し、二人目の娘が生まれ、そして今フランスへ旅立とうとしている。
通常1年で経験する内容をはるかに凌駕している1年だった。
そしていいこともあれば、悪い、というか心配なこともある。
体調を崩して今週金曜日は精密検査を受けるし、親知らずは抜かれるし、生まれた娘は体重増加が心配だし、妻の父親も病状が心配だし。

改めて思うのは、これまでの僕の人生観にもつながること。
言葉で表すのは難しいし、これまで人に語ったことはないかもしれないけど、ずっといつも考えていること。

サイコロを振る。
1の出る確率は1/6。それは誰もが知っている。
でも、1が2回出た後の3回目に1が出る確率は決して6分の1ではない。
何かが偏るときは、必ずそれを押し戻す力が働く。
確率論はあくまで全体の総数が無限という過程を伴うものであって、それ自体が既に局地的な見方でしかない。
物事の総数は決まっているようなもの。
オリエンタルな考え方でいうと、それは因果応報であり、人間万事塞翁が馬なのだ。

大学時代、商学部でありながらどうしても確率統計論と理論経済が好きになれなかった。
それは、学問の前提がある種の均衡、それは僕にとって極めて特殊なケースにしか思えない、そういった整合性を前提として成り立っている、そういった整合性の上でしか成り立たない理論に思えたからだ。

そういう意味で、今年はいろんなプラマイがあった。
それは結果的に見ると、パリへ赴任できるということが人生にとって大きなプラスであり、そのプラスとバランスをとるために細かなマイナスが生じた、そんな印象を受ける。
僕は決して運命論者ではないが、そういった均衡を保とうとする力、人生の慣性の法則のようなものを感じずにはいられない。

そういう意味で考えると、天賦の才と自助努力のイメージを以下のようにとらえられる気がする。
つまり、一般の人のプラスとマイナスが+100と-100で人生の均衡が取れていると考えると、天賦の才を与えられた人、つまり天才は、既にその絶対値が+200と-200なのだろう。
その間を行きかうからこそ、天才と気狂いは紙一重と言えるのではないだろうか。

そして、秀才、つまり自助努力で生前に高められることと言えば、プラスとマイナスの均衡点を少しでもプラス偏重へずらすということ。
つまり、何の努力もしなければ±100で均衡する人生を、+100と-80で均衡させられるのが個人の自助努力なのではないかと思うのだ。
努力する人が必ず報われるとは限らないが、成功した人はすべからく努力した人であり、その人は結果として確実に+20を手にできる。
だからこそ人はがんばって、前向きに生きるべきなのだ。

予定調和と必然と、そして自分の意思。
何をすべきかは翻って、何を成し遂げたいかであり、その道筋をたどるのは地道な日々の積み重ねなんだろう。


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