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四川大地震 [ちょっとまじめな話]

四川大地震の発生から1週間が経過し、日本の国際緊急援助隊が撤収を始めたというニュースをネットで見た。
こちらではこういう時事ニュースが基本的にネット経由となるため(テレビはあるけどつけてない)、どうしてもリアリティを感じ辛いが、それでも大地震というと自分も体験した阪神大震災を思い出してぞっとする。

当時高校2年だった僕は京都の南の大阪との府境に住んでいた。
震源地の淡路からはかなり離れていたが、それでも団地の4階だったこともあり、揺れに揺れた。
今から13年前の1995年1月17日の早朝に阪神大震災が発生したとき、受験勉強(と言いつつも、ラジオ聞いたりしながらダラダラ夜更かししていた気もするが・・・)で寝たのがかなり遅かったのだが、それでも耳のすぐ下で工事をしているようなゴーーーッという地鳴りで目を覚ましたのを覚えている。

夢と現実がよくわからないままとにかく轟音が鳴り響き、「ん、なんだこの音?」と思った瞬間に、ドッカーンという爆弾が爆発するような音がして寝た姿勢のまま上に飛び上がるような衝撃を受けた。
その後は、もうわけもわからず部屋の左右の壁に転がってはぶつかり、まさに部屋を巨人にシェイクされているような感覚だった。
こうなると、今まで習った「机の下に隠れよう」などという行動はまったく不可能で、四つんばいになることすら無理だった。
あの時は直感的に「あ、これで死ぬんだな」と思ったほどだ。

後の発表では震度5だった(ちなみに震源地により近いはずの大阪は震度4で、地層の性質によってこの異常震域という現象は起こりえるらしい)のだが、どう考えてもそれ以上の震度だった気がする。

地震が去ってみると、思わず窓から他の団地の棟を見てみたが、倒れているような様子はなかった。
その後何回か余震があったが、特に連絡もなかったのでそのまま四条河原町経由で高槻にある高校へ登校することに。
確か家を出る前にもテレビを見たが、当時は災害情報の即時性が十分ではなく、神戸の町が全壊しているという情報は地震直後には流れていなかったように思う。
だからこそ登校したわけだが。

京阪電車にのって四条へ向かっていると、途中何度も余震で電車が止まる。
やっと四条についたと思ったら、阪急電車の四条駅で黒山の人だかり。
京都出町柳から大阪淀屋橋を結ぶ京阪電車と違って、京都から十三を経由して宝塚や三宮まで至る阪急が運行不能になるのは当然だ。

その後如何ともし難いので家に戻り、テレビをつけて神戸の惨状を目の当たりにしてびっくりしたのを覚えている。

こういう大地震が起きたこと自体は不幸以外の何者でもないのだが、その後の人々の振る舞いには日本人として誇れる部分がたくさんあるように思う。
一番の点は、倒壊した店や町で強盗や暴動が起きなかったということ。
これは日本人の「恥の文化」がなせる業だと思うし、日本人の倫理観を外国人に説明するときにはよくこの話をする。
もちろん、一方で被災地にソーセージを1本5,000円で売りに行くと言うバカもいたけど。

その後数年して神戸の町を阪神電車で通り過ぎた時、まだ芦屋近辺にはビニールシートで覆われた倒壊した住居が点在していたが、それでもほとんどの部分が急速に復旧していることに感動したのを記憶している。

中国もこれからの復旧が大変だし、北京オリンピックのあり方にも少なからず影響を与えるだろうが、これを機に日本と中国の関係が被災地を通じて少しでもいい方向に変わって行けたらと切に思う。

こちらで仕事をしていると、EU諸国の連携、国規模の経済としても個人レベルの親交としても、その強さを目の当たりにすると、ちょっとうらやましく感じることも多いから。
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