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日本という国 [ちょっとまじめな話]

日付が変わって今日にでも北朝鮮が弾道ミサイルを発射するらしい。
国外にいて主にネットでの記事を見ていると、下手に映像や音声がないだけに緊迫感が漂う。
パリに住み始めてから、徐々に日本、その文化、国家観というものを意識する時間が増えてきた。
それは他文化に交わったが故に相対的に意識が高まったのか、離れてみて初めてわかる祖国の良さなのかわからないが、日本という国、そして日本時であるということがどういうことなのか、この1年4ヵ月それを常に考えている気がする。
そして日本にいるときよりも遙かに考えるようになったのが、日本国憲法というものがなんなのか、そしてやはりその中で必然的に一番議論を生む憲法9条についてだ。

今まで人生の中で、正直平和は当たり前で、第二次世界大戦を経て全ての国が以下に戦争が悲惨かを理解し、そして二度と起こさないために努力をしているのだと意識しないままにそう考えてきたように思う。
戦争とは宗教観の違いによる中東の紛争があるくらいで、先進国同志の衝突は起こらないのだと。
しかし最近、今の世界の平和はガラス細工のような危うい軍事的均衡の上にかろうじて成り立っているという気持ちが強くなってきた。
とはいってもそれは一触即発といった物理的な緊迫感ではないのだが、各国の外交政策の裏には軍事力の力関係が存在しているという意味での緊迫感だ。

今回の一連の動きにしても、こういうことはあまり詮索しない方がよいのかもしれないが、クリントン国務長官が訪日して野党である民主党の小沢一郎との会談を希望して、その後小沢が第七艦隊だけで十分という発言をした直後に西松検察に検察が入り、そして北朝鮮のミサイル発射通告。
そしてアメリカはもし発射した際には国連安保理決議案の提出をほのめかすも、常任理事国である中国は採否を明言せず(つまりは否決に回るということ)。
おそらく、そして望むらくは、北朝鮮のミサイルが単に日本を飛び越して太平洋に着するのだろうが、これまでの流れと今後の米中と日本の関係があまりに予定調和的に感じてしまうのは考え過ぎなのだろうか。

自分の国を自分で守る、それ以前に守るべき自分の国というのはいったい何なのか。
日本人の国家観が今まさに問われているのではないかと思う。
他の先進国より遅れて明治政府によって初めて近代国家というものを認識してから百年少し。
日清戦争、日露戦争による国家的滅亡の危機を必死にくぐり抜けた後に第二次世界大戦による悲惨な敗戦を経ながらも奇跡的な経済回復を成し遂げて来た日本という国に、今住んでいる自分達は何を考え、何をするべきなのか、そういったことが問われているような気がしてならない。

憲法改正の是非を巡っても、戦後60年未だに結論が出ないような状況なのだが、それでも母国を離れて様々な国の人と接するにつれ思うのは、日本には守るべき文化と尊重するべき歴史があると言うことだ。
今の日本人にもっとも求められているのは、客観的第三者的な態度を取りつつも、日本の素晴らしさを自己認識して、それを守るべき意識を持つことじゃないかと思う。
というとまるで改憲派のように聞こえるが、僕自身は9条を含めて護憲派。
日本が自分達だけでたどり着いた条文ではないが、それでも今の9条は今の日本人の精神と照らし合わせて堅持する価値のあるものだと思う。
ただ、もっと世界全体の中での一国家として、相対的な視点に立った日本国憲法のあり方について、この北朝鮮の問題を契機にいい加減真剣に議論するべきだと強く思う。

それはマスコミによる部分も大きい。
正直マスコミの民主党への傾倒については恐怖心すら感じるが、民主党の政策や最も大切な国防論ですら党内統一できていないような党に到底政権を任せていいとは思えない。
国のリーダーとは何なのか、果たすべき組織に対する責任感があるのは誰なのか、それを考えると問題はたくさんあるにしても麻生太郎はよくやってると思うのだが。

こういったことをBlogに書くべきかどうか、正直数ヶ月以上考えていたし、実際書いてみると自分の考えを文章化することが以下に難しいかを改めて痛感するが、こういうことを常に自問して身近な間柄でたまには真剣に話し合うと言うことはとても大事なことのような気がするのだが、どうだろうか。
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